第329号 信仰告白の学び:告白する教会 No.1
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」
(第一ペテロ2章9節)
以前、説教で、”Don’t go to church, but be a church”(教会に行ってはいけません。教会でありなさい)を紹介しました。クリスチャンである私たちは「教会に行く」のではなく、「私たち一人一人が教会である」ということでした。では教会である私たちは、何のための教会なのでしょう?それは信仰を告白するためです。
ルターの宗教改革、その正当な後継者達(Gnesio-Lutherans)は、異なる教えが次々と出てくる中で(同じルター派内であっても)、聖書に忠実な信仰告白を確立し、何度も議論、論敵との論争を重ねながら、文書・本にすることに尽力しましたが、その努力は、それとともに、教会が、クリスチャンが、一人一人、口で信仰を告白することの復興でもありました。宗教改革により聖書は祭司やビショップ、牧師だけのものではなく、信徒の手に戻ってきましたが、それと、同時に、信仰の告白も、儀式、形式でもなく、教職が代理で成すべきものでもなく、クリスチャン一人一人の口に戻ってきたのです。ですから、真の正統なルーテル教会(Gnesio-Lutherans)は、告白教会(Confessional Church)とも言われます。イエス様は弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ね、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えたのについて、イエス様は、「~このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」といい、その告白の上に「わたしの教会を建てます」「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」といいました(マタイ16章15~18節)。また、「わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」ともイエス様は言いました(マタイ10章32節)。そのみ言葉にあるように、クリスチャンは信仰を告白するのであり、そこに教会があるのです。
20世紀のドイツのルター派神学者、ヘルマン・ザッセ(Herman Sasse)は、「福音的なルーテル教会は、理想ではありません。現実です。「口の利けない(dumb)」ではありません。「話す(speak)」なのです。もし教会が、証し(告白)してこなかったなら、あるいは、証し(告白)しつづけないなら、それは教会であるだろうか。」(p4, “Here We Stand”, Herman Sasse)とも言いました。教会は告白するのです。ゆえに、クリスチャンも告白するのです。それは、牧師であろうと信徒であろうと、そこに違いはありません。クリスチャンは告白するのです。同じルター派の中で聖書と異なる、混ぜ物をした人間的な教えが次々を起こってくる中でも、ルターの宗教改革の精神を受け継ぎ、神の言葉、聖書にどこまでも忠実な信条・信仰告白を守ってきた正統なルーテル教会の人々は、そのことを大事にしてきたのです。
そのように教会、クリスチャンであることは、何か自分の知恵や力を振り絞り、理性を働かせて、私達が神のために何か功績を残すことでも、自分で頑張って聖くなることでもないのです。そうではなく、私たちがクリスチャンとして、いつも、私たちはどこまでも罪人であると認めながら、しかし、イエス・キリストの十字架、その身代わりゆえの罪の贖いによって、罪の赦しに与り、義と認められている、そのことに日々たちかえり、悔い改めつつ、告白するところにこそ、”Be a Church”,「教会でありなさい」があるのです。それは、ルターが神の言葉を証しする証人(クリスチャン)の全生涯は、悔い改めの生涯でなければならないと信じていたことにもつながっているのです。
現代において、教会は、「~先生の教会」という言い方がされます。しかしそこには、やはり、「~先生の教会へ」行く、私達がお客様として行くという風になってしまい、やはりそれは、”go to a church”(教会へ行く)になってしまいます。そしてそれは、結果として、”come home from the church”(「教会から」帰る)となります。つまり、教会は、日曜日の午前中だけのこととなってしまうのです。そうではありません。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(第一コリント6章19節)「私たちは生ける神の宮なのです。」(第二コリント6章16節)とあるように、教会は、建物だけでも、集るだけでも、日曜日だけでもなく、私たちクリスチャン自体、歩みそのものが、主を証しする、神の栄光をあらわす神の宮なのです。
私たちは、一人一人が主の証人、主の教会として、いつでも大胆に信仰を告白して行こうではありませんか。イエスはキリストであると。イエスは十字架にかかって死なれた。それは私たちの罪のためであった。しかし、その十字架のゆえに私たちは贖いだされたと。イエス・キリストの恵みのゆえに、救われたのだと。そして、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのだと(ガラテヤ2章20節)。「もうそんなこと知っているからもっと深いことを」ではないのです。ルターは小教理問答書を、洗礼や堅信礼準備者のためだけではなく、クリスチャンが何度もその分かっているはずのものを、繰り返し何度も学び、それを家庭で教えるために作りました。その単純かもしれない、分かっていると思っていることかもしれないけれども、純粋なまっすぐなキリスト中心、十字架中心の信仰を、言葉で、告白し、証ししていきましょう。そして、その告白は、現在、様々現れる都合のいい、しかし間違った教えに対して、最高の盾となるでしょう。今は、牧師であっても、自分の功績やプライド、組織としての教会の繁栄、人々の関心を集めるために、都合のいい教えを語る時代でもあるのですから、クリスチャン一人一人が、正しいみ言葉の教えが教会で語られ伝えられているかを見ている事は大事なことです。そのためにも、私たちの信仰告白、信条をしっかりと握って、聖書に忠実な教え、信仰を知ること、そして告白することは、”Be a Church”「教会でありなさい」のために有益なことでしょう。ぜひ私たちは、日々、信仰を告白し、そして、教会であろうではありませんか。
(参考文献:”Confessiong the Faith ~Reformers Define the Church, 1530-1580” by Robert Kolb, 1991, Concordia Publishing House.)