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2010年9月19日

第334号 信仰告白の学び:告白する教会 No.2~聖書、告白、教理

執筆:田口聖牧師

「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ローマ人への手紙10章8~10節

前回(4月・329号)小教理問答書を繰り返し学ぶことを勧めさせていただきました。しかしそこで「教理」という言葉が出てきます。教理というと「何か難しい。縁遠い。堅い」というイメージが持たれるのです。「教理」というと「私達は聖書にしたがっているのであり、教理に従っているのではない」という言葉も聞くのです。しかしそれは誤解なのです。聖書と告白と教理はとても密接です。まず、聖書が私達の権威であり、神の言葉であることは明らかなことです。「ルターにとって聖書は唯一の源であり、規範であり、信仰の基準である。なぜなら信仰はキリストにあり、神がキリストにおいて伝えていることが、神が伝えなければいけないことの全てであるからである。聖書は神の民に彼らがキリストについて知る必要がある全てのことを伝えている。・・・・」(p22, “Confessing the Faith” by Robert Kolb, Concordia PH, 1991)。 ルターは、キリスト者の中心である、キリストとその十字架は、聖書にこそあるとしています。そしてその聖書のメッセージは全ての聖徒に宣言されなければならないとして、教会においてクリスチャンが「告白すること」、そして何を信じ何を告白するかを「教えること」が必要であるとしました。「なぜなら、信仰を告白することは、聖書のみ言葉を(正しく)解釈し、現代の生活に適応することを意味している。この意味で信仰を告白することと信仰を教えることはほとんど同義である」(同、p22)(「「現代の生活」を「聖書のみ言葉に」」ではないことに注意。)。ですからルターは小教理問答書を「教えるため」と「教会の告白のため」に書いたのです。そして、私達の教団もそれを「信仰告白」としているのです。それらは聖書と遠いところにあるまったく種類が別のものではなく、むしろルターがこれまでの公同教会の信仰告白(使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条)に忠実に、何よりも、聖書に忠実にしっかりと土台を置き、聖書に基づいて、自分達が信じる聖書の救いの教えをまとめた「要約」なのです。しかもそれは「『ルター派の』信仰告白を作るため」という目的でもありません。当時は改革派もバプテスト等、他のプロテスタント教派はまだありませんでした。ですから、ルターやその同僚やクリスチャンは正しい聖書的な公同の教会の信仰告白という目的でまとめたものなのです。このようにして私達の信条、信仰告白、教理問答書はあるのです。そして、それは教会、信仰、聖書、信仰告白、教理が一つであり、聖書と聖霊によって「教会は信仰を告白する、信じることを教える。」という単純な姿があったのでした。

よく、教会の信仰告白を「告白しなければいけないもの」、教理を「信じなければいけないもの」「教えられなければいけないもの」と理解されるのです。それが何か教理や信条・信仰告白ということも、何か難しい、縁遠い、あるいは律法的に捉えられている原因かもしれません。しかしそれは逆です。告白も教理も、それは「教えられなければならない、告白しなければいけない」(must, or have to)ものではなく、教会・私達が今、すでに信じている(being, 現在進行形あるいは継続)信仰、聖書の教えなのです(p13, “theology of the Lutheran Confession” by Edmund Schlink, Fortress Press 1961)。しかもそれは繰り返しますが、公同教会の信仰告白と、なによりも聖書の正しい理解に基づいてです。ですから、私達の教会は、信条・信仰告白に対しても、小教理問答書にたいしても、遠くに見て身構えるのでも「信じなければいけないもの、告白しなければいけないもの」(律法)でもなく、「私達が聖書から今何を信じているのか」を告白している、信じている、その私達の声であるとして、見て行けるなら幸いでしょう。ルターは教理や教理の宣言(信仰告白)に関心を示さず軽視する説教者を叱責し、そのような説教者は詩篇さえ理解していないどころか、いわんや聖書全体さえ分かっていないで、分かったふりをしているのだとも言いました。それは聖書全体の簡単な概要(a brief compend)であり要約(summary)である教理問答書を軽蔑しているからだと。(Large Catechism Longer Preface.,18)。

ですから、教理も信条・信仰告白も、単なる神学校の一授業であるという見方や「もっと深めたい人が学べばいい」的なものとも違います。単なる聖書研究の一材料を超えたものです。私達ルーテル教会が聖書のみを信じ、その聖書から「神が何を伝えているか」、そして「私達は何を信じているか。何を教えられているか。何を伝えていくか(説教していくか)」の表明、宣言、声、告白です。その「何を信じるか」(教理、信条)を失った聖書の理解は、独りよがりな御言葉の摘み食いになり、自分の言いたいことに聖書を利用するような説教や証し、偽りの声、混ぜ物のの福音になっていく危険があるのです。そして教団、教会の一致も無くなっていくでしょう。「神は何を言っているか。それゆえ何を信じるか」による一致ではなく、どう感じるか(I feel)の一致になり、それは人それぞれ違うのですからばらばらになるのです。ですから、教理、信仰告白は、教団、教会の、何本かある柱の一つ的なものでもありません。まさに「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ」の上にたつ大事な教会の一本柱であるのです。そしてそこには「人間のリーダーシップによる一致」ではない「教理による正しい一致」の教会、教団があるといえるでしょう。

私達は聖書を信じています。しかし、聖書は何を伝えているでしょう。聖書を通して何を信じているでしょう。何を救いとするでしょうか?何を福音とするでしょうか?何を告白するでしょうか?今、本当は聖書ではそう教えていないがあたかも聖書が教えているかのような、み言葉の摘み食い説教による、形を変えた教え、救い(本当の聖書的救いではない一時的な救い)や、福音ではない「異なる福音」(別の福音があるわけではない)に注意が必要です。イエス・キリストの伝えた十字架の福音、十字架の言葉にしっかりと立っていくためにも、私達が「信じ告白する」小教理問答書はとても有効です。それは洗礼準備者のためだけの学びの教材ではなく、前号でも記したように、何度も学び、「私達が何を信じているか」を確かにし、家族で教えるために作られたものです。ぜひ、活用して行こうではありませんか。

(参考文献:○”Confessing the Faith”, Robert Kolb, Concordia Publishing House, 1991.○“Theology of the Lutheran Confesssion”, Edmund Schlink, Fortress Press,1961. ○”The Book of Concord”, Fortress, 2000)

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