第339号 信仰告白の学び:悔い改めと信仰〜アウグスブルグ信仰告白第12条
「イエスは〜神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」(マルコ1章15節)
今月は悔い改めについて学びましょう。一見、時代錯誤で触れたくない話題かもしれませんが、しかしルーテル教会としてもクリスチャンとしてもこれは大事な信仰の告白であり、ルターも95か条の提題の最初で「私達の主なるイエス=キリストは言う。「悔い改めよ、天国は近づいた!」主は、信者の全生涯が悔い改めであるべきことを望んだのである。」と掲げました。上記のみことばはイエス様の福音宣教の言葉であり、神の国への招きでもありました。そこでイエス様は悔い改め、信じなさいと言われました。私達は十字架にかかって死なれたイエス様を信じることによって義と認められています。私達の信仰告白・信条の中心です。しかしその信仰は一切私達の業ではなく、福音のみことばによるものです。けれども、神様は、律法と福音のみことばを聖なるものとして私達に与えてくださいました。福音は私達をいのちへと導きます。そして律法は私達を救うものではなく、私達を死へと導きます。律法は私達の罪を示すからです。しかし、律法によって私達の罪を示され、その罪に心刺され、律法によって死ぬことよってこそ、私達はキリストの十字架の福音によって新しく生まれることができるのですから、律法はやはり神様によって与えられた聖なることばなのです。律法と福音はこのように明確に区別されますが、同時に、教会は、律法だけでもなければ福音だけでもなく、律法と福音の両方を同時に宣言して行くために召されているのです。
イエス様はここで「悔い改めて、福音を信じなさい。」と言われます。イエス様は信仰告白には悔い改めがあることを示しています。宗教改革者たちとルーテル教会の信仰告白の誕生にも、律法と福音の区別と、永遠のいのちは悔い改めのない人には与えられないという悔い改めの大切さを知ったことにもありました。そこで彼ら、私達ルーテル教会はこう告白します。
「〜真の正しい悔い改めは、罪についての痛悔(contrition)と、悲しみと恐怖とをもち、またそれとともに、福音と罪の赦しについて信じることに他ならない。そうすれば罪は赦され、キリストによって恵みが与えられる。ついて生活への改善が生じ、また罪から解放される。これらのことは悔い改めの実であるはずであって、それはマタイによる福音書3章8節に、ヨハネが「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言うととおりである。〜」(アウグスブルグ信仰告白第12条3〜6、一致信条集、聖文舎)
悔い改めには、二つの部分があることがわかります。一つは、痛悔(contrition)です。メランヒトンはこの痛悔について「〜信仰は悔い改めにおいて存在する。信仰は我々の罪に対する神の怒りを感じ、罪の赦しと罪からの解放とを求める良心の恐れのうちに生まれる。」(アウグスブルグ信仰告白弁証第4条142、一致信条集、聖文舎)と記していますが、ルターは小教理問答書で、「我々のうちにある古いアダムが、毎日の心の痛みと悔い改めによって、すべての罪と、悪い欲望とともに溺れて死ななければならず〜」(小教理問答書・洗礼12、一致信条集、聖文舎)という表現をしています。その悔い改めは「あれが罪で、これが罪でない」という問題ではなくて「むしろすべてのことを一括して「われわれは全体的に、全部罪深い」という。〜というのは、我々が自分の罪のために支払いをするに足るほど善であると考えられるようなものは何もなく、我々の実情や考えや言動など全てについて、ただもう確かに絶望があるだけであるからである。」(シュマルカルデン条項第三部、36、一致信条集、聖文舎)とあるような導きなのです。
もう一つの部分は信仰です。「またそれとともに、福音と罪の赦しについて信じることに他ならない。」(アウグスブルグ信仰告白第12条3〜6、一致信条集、聖文舎)とあり通りです。 律法は痛悔(contrition)へ導き、心の痛み、絶望を与えるでしょう。しかしだからこそ、私達は十字架に現された私達の身代わりとしての十字架、神のその私達の罪に対する怒りを一身に背負われたイエス・キリストの恵みによる救いへと与ることができるでしょう。「新しく生まれなければ」とイエス様はニコデモに言いました(ヨハネ3章)。まさに律法によって「心の痛みと悔い改めによって、すべての罪と、悪い欲望とともに溺れて死」ぬからこそ、福音によって新しく生まれることがあるのです。そして、ルターは「毎日」といいました。クリスチャンの生涯が悔い改めの生涯であるという意味で「全生涯が悔い改め」を掲げました。それは日々律法によって死に、しかし福音によって信仰が新たにされ新しく生まれるのだから、日ごとに「洗礼の恵み」に生きていることとも同じことであるのです。「洗礼は悔い改めと呼ばれてきた第三の聖礼典を含んでいる(74)〜悔い改めとは古い人を厳しく棄てて、新しい生活に足を踏み入れることでなくてなんであろう(75)〜だからその中に生活すれば、単にこうした新生活を意味するばかりでなく、またそれを初動作汗、促進させる洗礼の中に生きるのである(76)〜だから洗礼は永続的である(77)〜だから悔い改めとは洗礼に立ち返って、先に開始しながら中絶してしまったことを取り戻し、実行すること(79)〜だれでも洗礼を日常の着物のように考え、これをきて生活すべきである(84)。」(大教理問答書・第四部洗礼、一致信条集、聖文舎)
すばらしいことではありませんか。悔い改めは、痛悔と信仰をもって、私達の新しいいのちのはじめにあった、キリストの十字架の恵み、その恵みの救いに与ったバプテスマ(洗礼)に日々立ち返る時であり、喜びと日々新しい祝福であるといえるでしょう。私達はみことばと聖霊いよる、その痛みをともなうこの恵みと祝福によって、日々導かれている存在といえるでしょう。私達に与えられた新しい人生は、日々悔い改めの人生なのです。
(参照:p62〜63, The Work of the Law and the Gospel:Repentance, “Getting into the theology of concord”, by Robert Preus, Concordia Publishing House,1977)