第343号 ルター小教理問答書のすすめ〜②
先月と今月の月報に分けて、「律法と福音の宣言者」というエッセーを掲載してくださっています。ぜひ読んでいただきたいのですが、現在、教団では、教会が「律法と福音の宣言者」となっていくためにも、ルーテル教会の信仰告白であるルターの小教理問答書に立ち返ろうとしています。それでこれまでの月報でも、少しずつ、小教理問答書のことを学んできています。小教理問答書は、決して、洗礼の前だけ必要とされ、洗礼を受けた後、もう必要ないというようなものではないと記しました。小教理問答書は聖書の教えることの誰でも分かるような要約であり、教科書ではなく、私たちがいつでも立ち、口にでる「信仰告白」です。そしてそれは、律法と福音とのはっきりとした区別、そして十戒(律法)から、信仰告白(福音)、主の祈り(祈り)へという、現在進行形のクリスチャン生活、私たちの今ある聖化の歩みのことにまで関わっています。パウロは言います。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
私たちの今の生活は、日々、古い自分に死に(溺れる=Daily drawning; 洗礼を反映している)、キリスト、そしてキリストを信じる信仰によってのみ日々、新しく生まれることです。このような「死からいのちへ」の動きは、まさに律法(十戒)から福音(信仰告白)への動きです。もしこの順序を間違え「福音から律法」(あるいは「律法から福音、そしてまた律法」)になると、混乱が生じます。「私たちの教え、説教、クリスチャン生活におけるこの順序を混乱させると直ぐに、私たちは福音そのものを捨て、人々を、ベッドの端にうずくまって自分が十分に業をなしたかどうかを悩ませ動けなくさせることになるだろう。」(p7、Martin Luther’s catechisms, Timothy Wengert, Fortress Press, 2009) 多くの教団は、ルターの「義認」の教えには同意するでしょう。しかし「聖化」に関しては、ルーテル教会とは違った考えにある場合が多いことを私たちは注意して見ていなければいけません。彼等はいうでしょう。義認は神の恵みであっても、個々の聖化は、神との協力が必要なんだと。クリスチャンは、個々人の聖化のレベルをアップさせるために、神の恵みに協力できると。けれども、私たちは、どこまでも罪人であり、自分たちでは、神の律法とその要求に答えることはできないものです。Dr.デヴィッド・スケアー教授は聖化についてこう言っています。
「概してほとんどのプロテスタントは神のみが罪人を義と認め、聖化のわざを開始されることにおいてルターと同意するが、その多くが、信仰者はそれを完成させる責任があると言い続けることにおいてルターと異なる。彼等はカトリックの巡礼、九日間の祈祷、告解の秘跡、良い業としてのミサには反対する。しかし彼等は人間が個人的な聖さを得るための聖化において、神と協力することにおいてはカトリックと同意する。つまり神のみが義とする。しかし聖化は結合した神と人の活動である。それは神が始めたとしてさえ、それぞれの信仰者が完成させる義務を負っていると。このシステムにおいては、道徳的要求を教え、不道徳に対して警告する律法が、 福音のみが信仰を生じさせるということに取って代わることになるのである。それでは恵みによる義認は、過去の出来事としてみられ、現在の焦点は、完全な聖化を達成するために神と協力する人間にむけられている。ルーテル教会は、クリスチャンは罪人として、決して神の道徳的要求と、罪への脅威に対して一切免疫はないということ、しかし、最も厳密な意味に置いて、これらの警告(律法)は、クリスチャンの聖化に属するものではなく、クリスチャンの聖化、あゆみは、信仰者がキリストにあって生き、キリストが彼等のうちに生きるものであると認識するのである。」(p24,Sanctification by Grace Alone, by Dr. David Scaer, ”We Believe”,Concordia Theological Seminary Press, Fort Wayne, Indiana, 2000)
私たちは、キリストのうちに生き、キリストが私たちのうちに生きる生き方、古い自分に死に、キリストにあって新しく生きる。律法から福音へ生きるものなのです。それは義認においても、聖化においてもかわりありません。「救われるまで恵み、洗礼の後は、神の恵み半分、後は私たちの責任、義務で、聖化を達成しよう、変わっていこう、変わらないと行けない。変わっているから自分はすごい。変わていないから自分はだめなんだ。」聖化はそう言う世界ではありません。それでは、まさに「律法→福音→律法」です。義認も主の恵み、キリストのみ。そして聖化も、主の恵み、キリストのみなのです。
「第三条、きよめについて:わたしは聖霊を信じます。また聖なるキリスト教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。
これはどのような意味ですか?
答—わたしは自分の理性や能力によっては、わたしの主イエス・キリストを信じることも、みもとにくることもできないことを信じます(第一コリント2:14)。けれども聖霊は、福音を通してわたしを召し、その賜物をもってわたしを照らし、まことの信仰のうちきよめ、支えてくださいました。それは聖霊が、この地上の全キリスト教会を召し集め、照らし、きよめ、そしてイエス・キリストにある、まことの一つの信仰のうちに支えられる通りです(マタイ16:17、エペソ5:25〜27)。聖霊は、このキリスト教会において私と全ての信仰者に、日ごと全ての罪を豊かに赦し、そして終わりの日に、わたしと全ての死者をよみがえらせ、私にキリストを信じる全ての者とともに永遠のいのちを与えてくださいます。これは確かにまことです。」(p16、小教理問答書、マルティン・ルター、日本福音ルーテル教会、1994)
小教理問答書は、洗礼の前での卒業テキストではありません。それは、義認のみならず、私たちの恵みによる聖化の歩みにおいても、正しい順序、「律法(十戒)から福音へ(信仰告白、主の祈り)を示し、教えている、既に救われたクリスチャンのためにこそ有益なものなのです。
参考図書:
Martin Luther’s catechisms, Timothy Wengert, Fortress Press, 2009
Sanctification by Grace Alone, by Dr. David Scaer, ”We Believe”,Concordia Theological Seminary Press, Fort Wayne, Indiana, 2000
小教理問答書、マルティン・ルター、日本福音ルーテル教会、1994