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2011年8月21日

第345号 ルター小教理問答書のすすめ〜③:十戒(律法)の伝えること

執筆:田口聖牧師

よくこんなことを聞きます。「教会はあれをしては行けない。これをしては行けないというから嫌なんだ。」と。そして、クリスチャンや、クリスチャンホームの子供達も、たとえ「福音」を通して救われたとしても、その先に「〜しなければいけない」があるかのように考えやすいものです。また一方で、律法主義は間違っているからと、十戒(律法)を取り上げる事自体が律法主義であるかのように考え、十戒をなるべく取り上げない、あるいは、取り上げないで欲しいという風潮もでてきます。挙げ句、十戒や、それを教える小教理、「律法と福音の説教」というものは「堅苦しい」「律法主義的だ」「視野が狭い」というレッテルを貼る事によって、安易で”視野が狭い”感情的な結論が導きだされ、そして「『人を集めるために』、『もっと魅力的な』教会、礼拝、方法、ヴィジョンを!」という風に聖書を割引した、実に”視野の狭い”ヒューマニズム的な結論もよく聞きます。

いずれにしても「もはや私たちには十戒(律法)が必要ない」というのは誤解です。もちろん、律法は救いませんし、私たちは律法によって生きる者ではなく、キリストにあって、福音に生かされているものです(ガラテヤ2章20節)。けれども律法も神のことばであり、十戒は変わることのない神様の言葉であり、そして確かに罪深い私たちが「すべきこと」「すべきではないこと」を教える変わらない神様の御心ではあるのです。だからといって、もちろん十字架と罪の赦しの福音の恵みに生かされている私たちは、もはや「MUST、〜しなければいけない」が中心にも指針にもなることはありません。

ルターは小教理問答書でまず十戒を教えています。また大教理問答書の半分にわたって「十戒」について説明しています。なぜでしょうか?それはまず非律法主義者(放縦思考)に対する反論があるのですが、それ以上に、十戒は私たちに私たちの罪を示すからこそ重要であると考えていたからだと言われています。ウェンゲルトは「An “Ought” never implies a “Can”」(「すべき」は「できる」を意味していない)というタイトルで、律法の働きは、一生懸命努力すれば達成する事ができるというような天国への簡単な道筋を示すものではなく、私たちに私たちの罪を示すためだと記しています。「私たちはなんと無限に天国に遠い存在であろう」と(p40、Martin Luther’s Catechisms, by Dr.Timothy Wengert, Fortress Minneapolis, 2009)。ルターは十戒を自分たちで簡単に行えるかのように考えている人々にいいます。

「そしてこの哀れた盲目の人々は、人間はだれも十戒の一つさえ正しく守る事ができず、むしろ使徒信条と主の祈りとに助けられて、十戒を守りうるように祈り求め、その力を絶えず受けなければいけないということを悟らない。だから彼等の誇りはちょうど、「支払うべき小銭はないけれど、十グルデンなら支払ってやる」などと威張って言っているの変わりはない。」(大教理問答書316、一致信条集p603、聖文舎)

十戒は、神様の私たちへの「〜すべき、〜してはならない」の御心を伝えますが、しかしそれと同時に、私たちはだれ一人としてそれを正しく行えない現実をも示すのです。十戒にあって私たちは皆、罪人であることが示されます。それはとても大事なことです。私たちが神様の前にあって本当の自分を知らないことは致命的なことでしょう。それは何から救われなければならないかが分からないのです。「「罪」や「悔い改め」は人気がない、人が敬遠するから必要ない、陰に隠して、むしろもっと「魅力的な〜を」」と混ぜ物のある「安価な福音」を伝えても、その人が自分の罪を知り、そこから救われないなら、あるいは、安価な福音で救われたと思わせても、その人に日々の悔い改めがないなら、それは地上の一時の安らぎを提供しているにすぎません。むしろ教会のエゴのために不親切なことをしていることになるのです。私たちは十戒を通して、自分は神の助けなしに何一つこれを行えない罪深い者である事を知るからこそ、唯一の助けである福音(ディスカウントされたのではない本当の福音)へ、イエス・キリストへと導かれるでしょう。ですから、ルターは小教理問答書において、十戒、使徒信条、主の祈りという順序で教えるのです。そこには律法と福音の宣言という柱があります。それはクリスチャン生活の「入り口」ではなく「柱」です。入り口として学んだら必要なくなり、その先に他の魅力的な方法論があるというものではありません。ルターでさえ、自分も生涯、教理の生徒として繰り返し学び続けるといいました。ウェエンゲルとはいいます。

「クリスチャン生活は、洗礼のように、(水)に溺れることから(水から)上がることへ。死から復活へ。罪の告白から赦しへである」(p40、Martin Luther’s Catechisms, by Dr.Timothy Wengert, Fortress Minneapolis, 2009)と。

それはイエス・キリストにあってともに十字架に死に、キリストが私たちのうちに生きていることによって生かされることです。そして、キリストにあって生きる者は、十戒も「〜なければならない」ではありませんし、信仰生活も「イエス・キリストへ行かなければならない」ではありません。ルターは、戒めはもはや聖霊による業において達成されるとしました。聖霊はみ言葉を通してキリストへの信仰を与え、キリストにあって全ての戒めは果たされるのだと。

十戒(律法)はですから小教理問答書で教えられています。そして一番最初に取り上げられているのです。「それは容赦なく、私たちの十字架と復活の主イエスへとうながす「死の言葉」として」(ウェンゲルト)。

私たちは十戒(律法)から神様の御心を知り、同時に、私たちはそれを正しく行えない(第一の戒めさえ)ものであると、自分の罪を十戒を通して教えられたいのです。アダムとエバのように逃げる事なく、隠れる事なく。その気持ちは誰でもありますが、しかし今や神様は私たちを救うために、そして神の御心を行わせるために、私たちにイエス・キリストを、十字架の福音を与えてくださっているのです。私たちは律法と福音の言葉によって生かされていきましょう。小教理問答書を繰り返し学びましょう。そして、日々、洗礼の恵みにあって、「溺れ」、「上がり」、死から復活へ、罪の告白から赦しへの、日々を歩み続けていきましょう。

 

参照・引用

○p40、Martin Luther’s Catechisms, by Dr.Timothy Wengert, Fortress Minneapolis, 2009

○大教理問答書316、一致信条集p603、聖文舎

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