彼は光ではなかった
ヨハネによる福音書1章6〜8節
1、「神から遣わされたヨハネという人が現れた」(6節)
使徒ヨハネはバプテスマのヨハネのことを伝える。そのバプテスマのヨハネも「神から遣わされた」人として紹介されている。ゆえに使徒ヨハネは、このバプテスマのヨハネも、イエスに並ぶ「光」「救い主」として伝えようというのか?そうではない。使徒ヨハネははっきりと書いている。
「彼は光ではなかった」(8節)
と。バプテスマのヨハネは「光」ではなかった。では、なぜ使徒ヨハネはここにバプテスマのヨハネの記事を入れたのか?9節の初めで再び使徒ヨハネはまことの「光」、イエスについて語り始める。ゆえに何の脈絡もなくこのバプテスマのヨハネのことが入っているかのようにも思わされる。しかしここでバプテスマのヨハネ、そして「彼は光ではなかった」と書かれていることに確かに意味がある。もちろん記されているバプテスマのヨハネの使命そのものも意義があることではあるが、ここで「光ではない」バプテスマのヨハネが伝えられているということ、それは「まことの光」との対比、つまりその「まことの光」を示すためのメッセージがある。バプテスマのヨハネは「光ではない」のである。
2、「彼は光ではなかった」(8節)
バプテスマのヨハネというと何を思うか。彼は神が旧約聖書で預言した、救い主の前に遣わされる預言者であり、まさに「神から遣わされた」人。その歩みも、敬虔な祭司の子という家柄に生まれながら、荒野に住み、悔い改めを伝え神に忠実に従っていた。まさに「敬虔さ」の鏡のような彼。そして大勢の人がヨハネのもとに集まって来て、王のヘロデの妻が妬むほど。それはそのバプテスマのヨハネの人望のゆえなのか、敬虔さのゆえなのか、あるいは悔い改めのメッセージのゆえなのか、彼は人気があった。そして集まって来た人に川でバプテスマを授けていたのがバプテスマのヨハネであった。しかしそのような、それほどの敬虔な預言者、バプテスマのヨハネであっても、「光ではなかった」、はっきりと私達に示されている。今日の所は私達に伝える。「まことの救いの光はただ一つである」そのこと。つまり「光」「救い主」は御子イエス・キリスト、その方ただひとりである。そのことである。如何に優れた、敬虔な預言者であっても、それは光ではない。光になりえない。私達はクリスマスを迎える。しかし、何らかの「人」が、その人がどんなに敬虔であっても、「人」はこのクリスマスの中心ではない。いかなる優れた人、どんなに立派で、愛が溢れ、行いが立派で、ことばが立派で、人気があっても、楽しくても、しかし「人」は光ではない。クリスマスの中心ではない。クリスマスの中心、「光」は、牧師、説教者でもない。その他のクリスチャン、受洗者、奉仕者、賛美リーダーでもない。まして、巷で人気の、サンタクロースでも、ミッキーマウスでもない。また「自分自身」でもない。自分自身の思いや願いが、このクリスマスの中心、光ではないはず。あるいは、いかなる高級な物、金銀、ダイヤモンドであっても、それはまことの人の光、闇に輝く光ではない。神から遣わされた預言者ヨハネ。もし「仮に」神に一番近い存在というのがいると仮定したばあいに、このバプテスマのヨハネがふさわしいかもしれない、そのような人、聖人のような人。しかしバプテスマのヨハネは「光ではなかった」。聖書は、使徒ヨハネははっきりと伝えている。光ではないのである。いや、いかなる人も光にはなれない。バプテスマのヨハネもまた不完全な一人の罪人、朽ち行く人間なのである。
3、「ただ、光についてあかしするために来た」(7〜8節)
「彼は光ではなかった」ーこのことばは何を私達に示しているか。8節のその後にこう続いている。
「ただ、光についてあかしするために来たのである。」
「光についてあかしするため」- 7節でもこのように書かれている。「この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。」ー「光についてあかしするために」来た。バプテスマのヨハネは光ではない。そうではなくバプテスマのヨハネが遣わされたのは証しするため。指し示すため。その「まことの光」「救い主」について。事実バプテスマのヨハネは、そのことこそ行っていったことが、この後記されていることを見ることができる。
「ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが、祭司レビ人をエルサレムからヨハネのものに遣わして「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。彼は告白して否まず、「わたしはキリストではありません」と言明した。」(1章19〜20節)
「ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方の靴の紐を解く値打ちもありません。」(1章26〜27節)
「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(1章29節)「私はそれを見たのです。それでこの方が神の子であると証言しているのです。」(34節)
バプテスマのヨハネはイエスを証ししている。イエスを指し示しているではないか?。
「彼は光ではなかった」「ただ、光についてあかしするために来たのである。」
4、「何を見るか?〜聖書が指し示す光」
私達はこのアドベント、そしてクリスマスに、何を見上げ、何を中心にし、何を待ち望み、何を心の、信仰の、拠り所に見るか?聖書も、使徒のヨハネも、バプテスマのヨハネも、私達に指し示す先は、同じである。イエス・キリストに他ならない。この方こそ、唯一の救い主。いのちであり、唯一の人の光、闇に輝く光なのである。私達のまわりには沢山の物事がある。楽しみも沢山ある。「人工の光」は沢山ある。逆に、試練や、思い煩い、苦しみ、忙しさ、畏れ、不安。そのようなこともある。それらはむしろ「闇」。しかしそれが私達に示されている、見るべき「光」でも、まして「闇」でもない。イエス・キリストこそ、示されている「まことの光」、闇の中に唯一の輝く光。私達は聖書や、使徒ヨハネが、バプテスマのヨハネが私達に示す先を見ようではないか。イエス・キリストを見上げ、この救い主をますます信じ、信頼し、拠り所として、求めて、救いを確信できるように祈り求めよう。
5、「私達が与っている恵み〜光を見、光を証しする」
このバプテスマのヨハネ、彼は「光」ではないが、彼は神に遣わされた人であり神の御心と使命に与っている一人。それは「光を証しする」と言うことだが、彼はそのために歩みを全うする。このバプテスマのヨハネは光ではないが、しかしまさに不完全な人間でありながら神に召されたものの一つの姿、つまり、私達も罪深く不完全でありながら、恵みによって神様によって救われ、召されているものであるのですから、彼の姿は、牧師、説教者である私自身、そして世にあって「王である祭司、聖なる国民」(第一ペテロ2:9)と呼ばれるクリスチャン一人一人、そして、まさに「証しの使命」そのものである教会の、一つの姿を示しているように教えられる。
A, 「私達も確かに光ではない」
これは大事なこと。なぜなら私達は「クリスチャンである」ということを「自分たちが自分たちの光を輝かせることだ」という間違いに陥り考えやすいから。そうではない。私達は光ではないのである。私達も光を証しするためにこそ召されている。イエスはいう。
「あなたがたはこれらのことを証人です。」(ルカ24章48節)
キリストを、十字架と復活による罪の赦しを、証しする人。それがクリスチャン。そのために私達は福音をいただき、福音に聞き、福音によって生かされている存在ではないか?またイエスはいう。「〜および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1章8節)ーやはりキリストを証しする「証人」とイエスはいっている。私達は使命とか、召しとか、証人とかいわれると大きいことのように考える。確かに大きなことである。しかしそれは恵みのゆえの大きさであって、重荷としての大きさではないことを注意しなければいけない。どこまでもその大きさは「恵みとしての大きさ」である。大きな恵みとして使命、召し、証人ということに「与っている」のである。しかし私達が「光」になろうとするなら、それはやはり、できないことをいつまでも急かされているようなものであり、それはやはり「重荷としての」使命、召し、証人ということになるはず。ある教えでは「クリスチャンは、「初めは」恵みによってクリスチャンになった以上、「それから」は今度は、がんばって、私達の力で、「神の栄光をあらわすために」、良い行い、わざをすることによって、キリストのように変わらななければいけない」そのように”励ます”教えもあるようです。しかし聖書はそのように教えていないように思う。少なくともルーテル教会はそのように信ずる。私達はキリストではない。私達は光でもない。いやキリストにも光にもなれない。パウロはいう。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2章20節)
キリストが私達のうちに生きておられる。もはや私が生きているのではない。キリストが生きておられることによって生きている。そしてそれは十字架の御子イエスを信じるただ信仰によるのだ。これがクリスチャンであるということである。自分たちでがんばって光になることではないではないか?「クリスチャンは、ただ、キリストに、十字架に、日々死んで、日々生かされていく。恵みのゆえに、信仰によって」ーそのことだとパウロは教えている。そしてこうもいう。
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるからです。主は御霊です。そして主の御霊のあるところには自由があります。私達はみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 第二コリント3章16〜18節
証し人である私達の歩み、聖化も神の栄光も、私達が光になることでも、栄光になることでもない。「主に向くなら」とある。十字架と復活のイエスを信じることによって、もはや私達の前の覆いも、深い闇もない。私達は光ではないけれど、いつでも光を見ることによって、その神の光、栄光を、反映させられていく。しかもそれはすべて聖霊なる主がしてくださる。それが私達であり、教会であり、「証し人」の使命の姿に他ならない。バプテスマのヨハネは言った。
「わたしはキリストではありません」(ヨハネ1章20節)
私達もまずそのように言うべき。「わたしはキリストではありません」と。そして、「キリストはこの方。イエスです」と、イエス・キリストを向いて、指し示して、光であるイエスのその光を、鏡のように反映させて、証ししていきたい。
B, 「人は天から与えられるのでなければ」
バプテスマのヨハネの光への姿勢はどこまでも光である主イエスの前にへりくだることであった。「その方は私のあとから来られる方で、私はその方の靴の紐を解く値打ちもありません。」(1章27節)とあった。そして3章26〜28節の彼には教えられる。 ヨハネの弟子達は、師匠のバプテスマのヨハネから、人々がイエスの方に移って行くのを見て嘆くのでした(26節)。しかしヨハネはいう。
「ヨハネは答えて行った。人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。あなたがたこそ『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ1章27〜28節)
「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることができません」ー主こそが光、主こそが召し、主こそが与える。それによってこそ自分がある。バプテスマのヨハネはそのようにいう。教会も、牧師も、クリスチャン一人一人もそうではないか。自分が先にある、自分の何かが、わざが先にあって、私達や、教会や、牧師の存在意義や価値があるというなら、順序が逆になり、まさに恵みは無駄、無意味になる。そしてそのような場合、教会は教会という組織を誇り、牧師は自分自身を誇り、クリスチャンも自分自身を誇るようになる。うまく行かなくなると、その逆で、自分や兄弟姉妹を裁くようになる。バプテスマのヨハネははっきりいう。
「 人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。」
と。私達もそうではないか?光は私達ではない。他の誰かでもない。光はキリストである。そして
C,「結びに:あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
私達は罪深いもの。キリストによって生かされて行くもの。私達自身は、やがて衰えて行く存在。それは必然。私達の地上の成功や繁栄や楽しみがいつまでも続く、信じれば地上での成功や繁栄が保証されるという教えは、間違った福音。私達は地上にあっては、聖徒であり同時に罪人。肉にあっては滅び行く身体。そして繁栄でも成功でもなく、地上では、試練と艱難、迫害の道であるとイエスはいう。しかしキリストがまことの光であり、その光が闇に輝いているからこそ、私達のうちに生きているキリストが、地上の物事を超えて、私達を朽ちることのない、永遠のいのちのあゆみに生かしてくださっていることを私達は聖書から教えられ信じる者。私達は衰える。しかし、救い主、まことの光、キリストが、ますます栄える、盛んになることこそ、私達の勝利の道。教会、クリスチャンというのはそのようなものではないか。
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
キリストだけが盛んになり、繁栄する。私達が地上でいかに試練の中を歩んでも、衰えても、死んで行っても。私達はキリストにあるがゆえに、それこそが私達の喜びにほかならない。このアドベント、クリスマスのこの時、私達は、まことの光、救い主である、御子イエス・キリストを見上げ、指し示して、この方こそ「わたしの救い主」そして「世の罪を取り除く神の子羊」と光を証ししていきたい。そのようにぜひ祈って行こう。