人とは (はじめての人のための賛美礼拝)
創世記2章1〜18節
1、「はじめに」
人とはどのような存在でしょうか?神は人をのどのように見ているのでしょうか?神と人との関係について聖書はどのように教えているのかを紹介しています。前回の1章では、天と地、そして全ての生き物、人も、神が造ったということをまず最初に伝えています。そこから、私たちの存在というのは偶然の存在ではなくて、神の思いが込めれられた存在。しかも1章で神が造ったものを「祝福された」とか「非常によかった」という言葉があるように、人は神にとっての「祝福の存在」であるということが教えられています。
2、「いのちの息を吹き込まれいきものとなった」(7節)
2章は1章で書かれていることを更に詳しく、特に「人間」に注目して書かれているところです。この2章では「人」というのはどのようなものであると教えているでしょうか?
「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(7節)
まず第一に人というのは、神によって造られ、神にいのちの息を吹き込まれた存在だということです。そして「生き物となった」とあります。そのいのちの息を吹き込まれて人の生の歩みは始まりました。「無」でも「死」でもない、「生」です。私たちは今、生きています。しかし「生きている」ということは実に不思議で、神秘的なことです。死という現実もあるからこそ生の尊さと不思議さもわかります。今、生きているということ、健康であっても、病気を持っていても、生きているということはまさに奇跡です。それが偶然であるというのは実に無味乾燥な感じがしますが、たとえ偶然であるとしたとしても「生きている」ということは、私たちの人間の力や知恵を越えている出来事でしょう。私たちは生きているものが、病気になった時、何とかそれを生かそうとするし、そして人間の知恵と技術はある程度はそれが可能です。しかしそこには越えられない大きな限界があるし、何より一度死んだものを生かすことはだれも出来ません。生きているこの命、「生きている」ということを私たちは発明したり造ることができません。私たちが今、「生きている」ということは、見えて、実感できる、唯一の奇跡であり、神の痕跡です。その「生きている」ということ、それは神によっていのちの息を吹き込まれた時から始まった。私たちが生きているのは神のいのちの息があるから。そこに私たちの「生きている」ということの原点、スタート、理由があるのです。これが最初の大事なメッセージです。
3、「置かれた」(8〜9節)
「神である主は東の方エデンの園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。」(8〜9節)
第二に、神は人を養い、保たれる、そして必要なものを備えて下さったということです。地と空、海、そこには生き物、人間が生きるための、命の源が溢れていて、人の住む場所、それは神がそこに「置かれた」のです。それは人が自ら選んで造って住んだというのとは逆です。主が造って命を与えた自然、資源、土地、気候、そこに人は「置かれた」のです。「置かれた」という、この言葉に私たちの命、生活、歩みが、神によって与えられ、満たされていることが表されています。「置かれた」ー それはまさに「恵み」の言葉です。私たち人間は、そのように神の加護、守り、満たしという恵みの中にあって「生きるもの」とされたのです。そのように造られそのように生きるものとされた。そのことがこのところが伝えることです。しかしどうでしょうか?今の人間、私たち、生まれつきの私たちは、そうであるとは思わないでしょう。むしろ人は神などいないといいます。必要ないともいいます。そして神ではない偶然が世界を生じさせ、それ依頼、人自らが新たなものを創造し、すべてを保ち、みずから生きている、自ら満たすものだと思って生まれ、成長し、大人になっていきます。しかしその自ら自立して生きる人間は、身近なところだろうと、世界的にだろうと、そこに人は互いにその「自分」の利益同士をぶつかり合わせ、争い、戦争というのが起こっている現実も見せられます。それは神の「置かれた」という恵みから離れ、ずれている私たちの現実を気付かされるのです。
4、「守らせた(15節)」
「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」
神は、人に、耕させ、守らせた ー このメッセージ。何が分かるでしょう。1章26節をご覧頂くと、最後の所に「支配するように」とあります。28節でも「生き物を支配せよ」とあります。この「支配せよ」と言う言葉。キリスト教に否定的な人はこの聖書の「支配せよ」という言葉をとって、キリスト教はそのように自然や地球を「支配して」、自然、動植物、大気、資源を、好き勝手に使って破壊することを奨励しているんだと言われるのです。確かに自然破壊などは、先進国と呼ばれる国々の功罪が大きいし、その先進国と呼ばれる国のほとんどは、キリスト教の歴史と文化の国々が多いです。それゆえにそのように言われるのでしょう。しかし聖書のこの「支配」の意味は、高圧的な意味ではありません。むしろ正しく治める、管理するという意味です。ですから、地上の自然、動植物、大気、資源を、正しく治め、大事にし、正しく管理する、務め、使命を、人は神から与えられているということなのです。しかもこの1章では人間以外の命あるものをも主は祝福されています。自然も動植物も神の祝福の存在なのです。その神の祝福である人と自然を正しく治め、管理することが本当の人に与えられている使命です。決して破壊や乱獲でもないし、まして奪い合いでもないのです。それをして来た国々は、たとえ自分はクリスチャンだ、キリスト教文化だといっても、神の御心、生きるものとされた時にあった、神の心、思い、命令から、やはりずれてしまっているのです。この2章15節では、「守らせた」ともあります。「守るべきもの」ー それが主が置いたエデンであり、そしてそれは、主の創造された祝福の被造物でもあるのです。私たちは神の見る、守るべきものの中に「生きているもの」「生かされているもの」です。隣人も自然も、私たちが守るべき、神の祝福の存在です。
5、「神のことばによって」(16〜17節)
「神である主は人に命じて仰せられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べても良い。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」(16〜17節)
ここから分かることはなんでしょう。それは人というのは神のことばによって生きるものとされているということです。この1章と2章の出来事、世界の初めの土台に流れているのは神のことばです。神のことばによって造られた。神のことばによって祝福された。神のことばによって置かれ、与えられ、満たされ、神のことばによって「耕すように、治めるように、守るように」命ぜられ、導かれている。それが1章と2章の一貫する中心的なメッセージです。ここでは「食べても良い」そして一方で、「しかしその木の実は食べてはならない」と、「してはいいことと、してはならないこと」を伝えています。人というのはそのように神によって、神のことばによって、教えられ、進むべき、歩むべき、生きるべき方向、道のりを、示されて、教えられて、「生きるもの」であったのです。そこには「食べる時、必ず死ぬ」とも言っているでしょう。この言葉はただ罰や脅しを言っているのではありません。食べると死んでしまうとい現実を伝え、良くないことにならないようにと示されている言葉です。それはどこまでも人のための命令であり、そこに神の人への思い、愛があるでしょう。18節を見ると、そこには「人が一人でいるのは良くない」とも言っています。それは「良くない」ことだと。何が人に取って良いことか、良くないことか。それが神の判断と言葉、命令の中心であることがわかる言葉です。その神の動機はやはり一貫しています。人はどこまでも神にとって「祝福の存在」だからです。そのためにこそ神のことばがあった。神のことばが人を教え、導きました。人は神のことばによって造られ、どこまでも神のことばによって生かされ、導かれる存在なのです。そして神のことばによって救われる存在でもあるといえるでしょう。それが人間です。神のことばによって生きる、それが本当の、本来の、元々の人の姿なのです。それでこそ、人はどこから来て、何のために生き、どうやって進み、どこへ行くのかが、まさにはっきりと示されて行くのです。
6、「人の今(現実)〜曲がっている現実」
しかしながら今の私たちの現実です。今、私たちはそうではないでしょう。生まれながらに神も神のことばもわかりません。信じません。神を否定し、信じようとしない。そのようにして生まれ、育ち、大人になるでしょう。人は本来の姿からまさに曲がった、ずれたものとなっている。そのことがわかるのです。そしてその状態、現実こそが、聖書が取り扱って、伝えなければいけない、人間の最も大きな問題、堕落、そして罪ということなのです。聖書はこの1、2章で、本当の本来の人間の素晴らしい姿を示すと同時に、3章からは、そこから全くずれてしまっている人間を伝えて行きます。それは私たちの今の現実の状態を教えるため、罪とその結果を教えるためです。
7、「そして、何より救いを伝えるための神のことば」
もちろんそれだけではありません。この聖書が伝えることはもっと重要なこと、そこからの救いのメッセージです。聖書が伝える救いのメッセージは、実に、その神からはなれてしまっている現実から、本来の人間に回復されなさいということです。聖書が初めから終わりまで伝えることはそのことです。そのことのために2章でも本来の人間の姿を示し、このあと堕落したその現実を伝えて、私たちが神の前に罪人であることを示し、そしてそこからの救いを伝えてくれているのが聖書なのです。聖書は何より、私たちに神に帰り、本来の人間に回復されるようにと招いているのです。それは人が自ら神を捨てて行っても、それでも神の方は、神によって人は、罪から救われなけれならない、大事な存在なのです。祝福の存在だからです。神の私たちへの招きは、その神の祝福に帰りなさいということでもあるでしょう。そしてその救い、回復の道として、神様が与えてくださった救いの道こそ、神の一人子イエス・キリストであり、その十字架なのです。
8、「聖書への招き」
ぜひ聖書を開いて、聖書に聞いて行きましょう。すべての人に対して書かれていて、すべての人に聞いて欲しいと聖書はあるのです。聖書を続けてみて行く時に、まさにその神の「わたしに帰りなさい」という声が私たちに語られています。そして聞くなら聞こえてくるはずです。そしてその言葉を受けて、誰でもイエス・キリストを通して神に帰ることができ本当の人間へと回復されるのです。ぜひ聖書をともに開いて、聖書に聞いて行きましょう。そしてぜひ救いを受けてください。そのことのために教会は祈り、願い、お手伝いして行きたいと思っております。